イスラームのサラート〜義務編

collabosr2006-01-07



 二人してここしばらくとても忙しく、すっかりおき去られていたこのこらぼですが、引っ越しを機に、もう少し定期的にお送りできたらと思っています。これがこのこらぼでの新年の誓いでしょうか。


「新こらぼ さらくだ」第一弾として、どんな宗教でも重要であろう神への祈りについて考えてみようと思います。
 祈りと言っても漠然としていますし、簡単にまとめるのは非常に難しいので、いくつかのカテゴリーに分けてまとめてみたいと思います。


 イスラームでの祈りというと、ムスリムがマスジド(モスク)に集まって、一斉に立ったり座ったり、地面にひれ伏したりしている姿を連想することと思います。
 この集団での礼拝もイスラームにおける大切な行為の一つではありますが、ムスリムが毎日このようなことをしているわけではありません。じゃあ、毎日彼らはどのようにして神に祈りを捧げているのか?今回は、ムスリムの義務としての礼拝について簡単にまとめてみたいと思います。


 まずは、イスラームで礼拝というのがどういう位置づけにあるか。

 礼拝は、アラビア語ではサラート、ペルシア語ではナマーズと言います。
 ムスリムが行うべき義務として5つの行為があります。信仰告白シャハーダ)、サラート、喜捨(ザカート)、ラマダーン月の断食、ハッジ月の巡礼がそれです。この五つを行わないムスリムは宗教的な罪を犯すことになるとされています。ただし、ハッジ月の巡礼は義務とはいえ、様々な条件により行えないムスリムもいるため、それを行うことができるムスリムは行うこと、となっています。

 これを見ると、サラートというのは、ムスリムとしての義務の二番目にあげられている重要な義務であることが分かります。しかし、シャハーダムスリムとしての前提でもあるので(シャハーダを唱えることでムスリムとなる)、ムスリムが行うべき義務としてはサラートは第一と言っても良いかもしれません。
 ムスリムはサラートを通じて神への服従を示し、またサラートを通じて神との精神的な交流を行い、内面を清らかに保たなければならないのです。

「我こそはアッラーである。このわしの他に神はない。さればわしに仕えよ。わしを心に念じて礼拝せよ」(ター・ハー章第14節)


 ムスリムの義務として行われるサラートは、一日五回行われます。これは、健全なムスリムの男女が必ず行うべきものとして、アッラーから命じられた礼拝です。その五回とはいつか。それは次の通りです。

 夜が白み始めてから日の出前までに行うファジュルのサラート。
 正午(太陽が南中した時)から三時間以内に行われるズフルのサラート。
 ものの影が本体と同じ長さになった時から日没までの間に行われるアスルのサラート。
 日没直後から次のサラートまでの間に行うマグリブのサラート。
 日没後完全に暗くなってからファジュルの礼拝までの間に行うイシャーのサラート。

 この五回のサラートは神が人に対して与えた命令ですから、心身共に健康なムスリムが必ず行わなければなりません。そして、サラートの前の清めからサラートの所作や回数、方角などがしっかりと決められていて、それがきちんと守られないサラートはサラートを行ったと見なされません。

 しかし、時間に関しては、上の説明を見ても分かる通り、サラートを行うべき時間には幅があります。
 昔は塔や屋根の上からムアッズィン(サラートの呼びかけを行う人)が美しい声で、そして現在はテレビやラジオ、マスジドのスピーカーから、サラートへの呼びかけ(アザーン)が行われ、人々はアザーンによってサラートの時間が来たことを知ります。アザーンが聞こえてきたら、仕事の手を止めてサラートを行うことが勧められますが、これは決して強制ではありません。その時、どうしても手が離せない仕事があったなら、それを終えてからサラートを行えば良いとされています。また、仕事などがどうしても終わらなくてサラートを行うべき時間帯を過ぎてしまった場合でも、カダーのサラートを行えば良いということになっています。

 一日五回のサラートが義務として定められているとはいえ、それはやむを得ない時まで無理をして行わなければならないものではないのです。

 イランの役所などでは時々、ナマーズ(サラートのペルシア語)の時間になるとどんなに大切な仕事があってもその仕事を放り出してナマーズを始めてしまう人がいます。たとえお客が来ていても、ナマーズを口実に1時間でも待たせて平気な人すらいます。
 これはイランのイスラーム政権的には素晴らしい行為かもしれませんが、本来は決して誉められた行為ではないと考えられています。なぜなら、行うべき仕事を放り出し、他人に迷惑をかけながら行うナマーズは、人にナマーズをしていることを見せびらかしているだけのものであって、神への服従や信仰の清めという本来のナマーズの意味を失っているからです。イスラーム預言者ムハンマド自身、「人に見せびらかすためのサラートは行わない方が良い」と言っています。
 イスラームの倫理書の中などでもこうした礼拝を、マッカ(メッカ)へ向かおうとしてトルキスタンへ歩いているようなものだと形容しています。つまり、神の道から外れ、全く的はずれなことをしているというのです。


 ところで、本来一日五回行われなくてはならないはずのサラートですが、なぜか、イランのシーア派の人々は三回しか行いません。スンニー派アラブ人がイラン人がいかに不信心かを言う時に必ず攻撃するのがこれです。
 毎日、テレビやラジオのニュースの中で、あるいは新聞の中でアザーンの時間が発表されますが、ファジュル、ズフル、マグリブの三回しかありません。この理由は、イランの人に聞いても今一つはっきりしません。アスルはマグリブと、イシャーはファジュルと一緒に行われるからだ、というのがよく行われている説明です。ただし、それだと、二回分のサラートで行うべきラクア(サラートで使われる単位、詳しくはまた別な機会に)を行わなければならないはずなのですが、イランではそうではないことが多いので、あまり説得力がないようです。

 ついでに、もう一つスンニー派から言われるイラン人のサラートに対する態度の問題点について。
 サラートへの呼びかけであるアザーンですが、現在は、マスジドに備え付けられているスピーカーから大音量で流しているそうで、イスラーム圏を旅行した人がよく、「アザーンで目が覚めました」と言います。
 ところがイランでは、よほどマスジドに近くない限りアザーンで目を覚ますということはないようです。なんでも、大音量でアザーンを流すと近所から苦情が来るのだとか言うのですが、本当なのかどうか。テレビやラジオでアザーンを流しているから必要ないのだ、という意見もありますが、どれが正しいのか何とも判断がつきかねます。
 同じイラン国内でも、スンニー派の方が多い地域へ行くと、ファジュルの礼拝のためのアザーンで飛び起きるということが起こりますので、やっぱり、苦情が出るから音量を下げているのかもしれないという気もしてしまいます。

 更にもう一つ。イランでナマーズを行わない人の言い訳は必ず、「私は神を信じているのだから形式にすぎない礼拝などする必要はないのだ」です。
 しかし、最初にお話しした通り、サラートはムスリムの義務として神から命じられた行為です。神を信じていることを神からの命令に従うという行動で表さないことは、神の命令に従わない不信心者であると非難されます。


 本題へ戻します。
 サラートを行う場所として、イスラーム圏では壮大で華麗なマスジド(ペルシア語ではマスジェド)が権力者によって建てられたりしますが、サラートは、清浄な場所であればどこで行っても構いません。そのため、オフィスや商店の片隅に礼拝用の敷物を敷いてサラートを行う人もいれば、旅行中に車を止めて道路脇の荒野の中でサラートを行っている人を見ることもあります。また、オフィスや空港などの中には礼拝用の小部屋が用意されていたりすることもあります。(こちらを参照のこと)


 サラートは色々と作法が決まっているということは最初に触れましたが、作法さえ知っていれば個人で行うことができるものです。神との仲介役は必要なく、常に一対一で神と対峙し、祈ることが求められています。
 個人で神と対峙するサラートですが、その一方で、ムスリムの連帯を強め、互いに信仰の道を歩むことを確認し、励まし合うために良いということで、義務ではありませんが、集団での礼拝が勧められています。このため、集団で行うサラートは、個人で行うサラートの25倍(法学派によっては27倍)の価値があるとされています。
 しかし、実際には仕事を持っている人が平日に集団でサラートを行うことは難しいです。
 アザーンの後、人々はマスジドや礼拝用の部屋へ三々五々集まってきますが、一斉にサラートを行うことはなく、自分のペースでサラートを行い、終わった人から仕事へ戻ったり、そのまま昼寝をする人もいたりという具合です。(こちらを参照のこと)

 義務として集団で礼拝を行うのは週に一回、金曜日の午後です。
 イスラームでは金曜日が休日ということになっていますが、これはユダヤの土曜日のシャバットやキリスト教の日曜日の概念とは違っていて、あくまで「集団礼拝を行う日」という意味でしかなく、決して「休日」「安息日」ではありません。
 アラビア語で金曜日を「ジュムア」と言いますが、これは、集めるという意味の動詞「ジャマア」が名詞化したもので、集団礼拝のために集まる日、という意味であることがこの言葉からも分かります。クルアーンコーラン)でもこのように言われています。

「信仰する者たちよ、集団礼拝の日の礼拝の呼びかけがあったらアッラーを念ずることに急ぎ、商売から離れよ」(ジュムア章第9節)
「礼拝が終わったら、大地に散らばり、アッラーの恵みを求め、アッラーを多く唱えよ。きっとお前たちは栄えるであろう」(同第10節)

 このように、金曜日は休日ではなく、仕事をしても構わない日であり、ただ、集団礼拝に集まる日だということが分かります。

 この金曜日の集団礼拝には、健康で理性ある成人男子は必ず加わらなくてはならないとされています。子どもや女性は自由意思によって参加できますが義務ではありません。

 普段のサラートとは違い、イマームと呼ばれる集団礼拝を導く人の指導によって集団礼拝は行われます。
 イマームは、現在は宗教学校で学んだいわゆる聖職者がその任に当たりますが、これは別に資格があるわけでなく、礼拝の作法に通じていて、イスラームの教理について人を導くことができる人物であれば誰でもイマームになることができます。
 アザーンの後、イマームはミンバルと呼ばれる説教壇の上から説教(フトバ)を行い、イスラームに関する問題や社会的な問題など、様々な問題が話されます。
 フトバの後、イマームに先導されて、集まった人々が一斉に礼拝を行います。これが、写真やテレビの映像などでよく見られる礼拝の様子です。
 金曜日に行われる集団礼拝には多くの人が集まるため、町で一番大きなマスジドが「金曜日のマスジド」として使われ、あるいは金曜日に使うことを目的として作られてきました。(こちらを参照のこと)

 ムスリムの義務として行われるサラート(礼拝)についてはこんな感じでしょうか。本当ならもっと詳しく説明すべき箇所も多いような気がしますが、煩雑になりすぎますので概要だけお話しました。
 義務ではない祈りについては、また、次回に改めてお話ししたいと思います。

 こらぼ さらくだ

これまでのエキサイト・ブログの「こらぼ さらくだ」 を、新たにこちらのはてな・ブログに移転してまいりました。こちらでは、画像に制限がありますので、画像はこれまでどおりエキサイト・ブログの「こらぼ さらくだ」ほうにリンクしてゆきます。


これからも、楽しく考えてゆけるコラボを展開できるようにと思っております。そして、宗教の接点だけではなく、イスラームユダヤ、イランとイスラエルの文化の接点にも触れてゆく予定です。


ナオミ&チカ

 ムスリムのメッカ

マッカ方位磁石


よく「〜のメッカ」という言い方がされる「メッカ」が、イスラーム最大の聖地である「マッカ(ペルシア語ではマッケ)」のことであるというのは有名です。


 これは、世界中のムスリムが「神の家であるカアバ神殿」があるマッカに向かって礼拝をし、一年に一回ハッジ(巡礼)のためにこの地に集まってくることから、何かの中心となる場所のことをこう呼ぶようになったとのこと。


 そのムスリムの聖地マッカとはどんなところなのでしょうか?そこにある「カアバ神殿」とは?


 チカさんによると、ユダヤの神殿は神がそこにいる場所ではなく、神と向き合うための窓口のようなものであるとのことでした。
 では、マッカはムスリムにとってどんな場所なのかというと、全ムスリムの紐帯を確かめる場です。
 カアバ神殿は神がそこに存在する場所ではなく、全世界のムスリムがそこに向けて礼拝を行う方向であり、ムスリムが巡礼に集まってくる場所です。同胞愛を強調するイスラームにおいて、人種や性別、年齢の別なく全てのムスリムが同じ方向へ向かって礼拝を行い、またマッカでハッジという一つの行を行うことによって、統一感と連帯感を感ずるという、全ムスリムの統一のシンボルであるということができます。
 ユダヤ教においてもそうであるように、イスラームにおいても神は時間や場所に捕らわれることなく、あらゆるものから超越して存在するものですから、カアバ神殿あるいは神殿内にある「黒石」に神が宿っているなどということはあり得ません。


 イスラームの伝承によると、イブラーヒーム(アブラハム)が息子イスマーイール(イシュマエル)と共にマッカの基礎を作ったが町の始まりとされています。その後、人々は神への信仰を忘れてしまい、偶像崇拝の神殿に変えてしまったが、再びムハンマドがそれを正しい姿に戻したのだとのことです。


 預言者ムハンマドがマッカでイスラームの布教を始めた頃、マッカは多神教の聖地の一つで、カアバ神殿には360もの偶像が置かれていたと言われています。
 これらの偶像への信仰が強かったマッカでは、ムハンマドの唱える唯一神への信仰は受け入れられず、ヤスリブ(後のマディーナ=メディナ)のユダヤ教徒たちに招かれ、ヤスリブへと移住しました。
 このイスラーム初期には、ユダヤ教徒への遠慮もあり、ユダヤ人の聖地であるエルサレムに向かって礼拝が行われていました。しかし、ムスリムの勢力が増すに連れ、ユダヤ人との関係が悪化し、ついにはユダヤ教徒と決別し、マッカが礼拝の方向であると定められました。その後、630年にムハンマドによってマッカは征服され、偶像は全て破壊され、イスラームの聖都となりました。



 ムスリムにとってマッカは、礼拝の方向であり、ムスリムの義務であるハッジの目的地である、一生に一度は訪れたい聖地です。


 カアバ神殿を中心とする一帯は聖域=禁域(ハラム)とされていて、戦闘、流血、狩猟、樹木の伐採などが禁じられています。


これは世界中どこにいてもマッカの方角が分かる「マッカ方位磁石」。
 イランでは更にそこに、自分が何回サジダ(跪拝)をしたかをカウントしてくれるカウンターと、モフル(※)がついている。これで、自分が正しくマッカの方向を向いているか、何回礼拝を行ったか間違えずに済むという便利グッズ。


(※) シーア派でよく使う素焼きの小さなブロック。人間は土から作られたものであるということを忘れぬように、礼拝の際に額がそこにあたるように床に置き、跪拝を行う。第三代目イマームフサインが殺された場所であるカルバラーの土を使って作られたものが最も喜ばれる。マシュハドやゴムなど、シーア派の巡礼地におけるお土産品の定番。

「神は神殿にいるのか」−ユダヤの神殿の役割と目的について

ティシャ・ベ・アブ


すっかり遅くなってしまいましたが、前々回のポスト「ナオミさんへの返答」のコメント欄にてナオミさんから神殿に関して頂いた質問について、ごくごく基本的なことを簡潔にまとめてみました。

ナオミさんの質問はこのようなことでした。

ユダヤでは神は神殿にいるものなのか、そして神はひとところにいるものなのか」


そしてそれに対しての私の見解はこうです。


まず、ユダヤでは神は神殿にいるのではなく、ひとところに留まらずにどこにでも(時間も空間も越えて)いるものだと言われています。


ユダヤの神殿は神と人との関係を築くための事務所というかオフィスというか、まあそんな場所であって、そこに神が住んでいるということではありません。旧約聖書(トーラー)を読むと、神殿はユダヤによって建設されなければならないもの、と短絡的に解釈できるのですが、実はもっと込み入った話なんですね。


中世の代表的なユダヤ学者であるランバンとラシは、それについてまったく異なった解釈をしています。ランバン派のカバラ神秘主義)的解釈では、いずれにしても神殿はユダヤのスピリチャルな必要性として建設されなくてはならなく、神殿は単なる建物ではなく宇宙のモデルであり、神秘的な意味合いを持っているとされています。


ラシ派では、はじめは人の精神レベルは物質なしに神とつながりを取れるほどに高いものなので神殿の必要はないと考えていましたが、モーセ十戒を授かるためにシナイ山にいる間に起こった「黄金の牛事件(人々が金で牛などの偶像を作り崇拝したこと)」で、そのレベルの人の精神では神とつながりを持つには物理的なものが必要だとして、神はモーセを通してユダヤの人に神殿を建てるように伝えたと解釈しています。


神殿は神に対して生贄(動物のみ)と祈りを捧げる場所として建てられました。旧約においては神殿に神はいないとはっきりと書かれ、神殿の中心部である「Holy of holies」と呼ばれる場所は空っぽでなければならないとされています。ちなみに、現在は嘆きの壁の下にある地下の遺跡の町を通り抜けて「Holy of holies」の裏側へ行くことが出来ます。


ユダヤ哲学で著名なランバム(ランバンとは別人です)は、本来、神殿において生贄を捧げるべきことではないと唱えましたが、旧約が人に与えられた時代にはユダヤ以外の世界中の人々は色々な生贄をささげることで神々とのつながりを持っていたので、ユダヤの人々も動物の生贄なしで神とつながりを持つことはできなかったのだが、しかしユダヤの人々が将来的に精神レベルを高めた時に、神殿へ生贄を捧げることは止めるだろうと解いています。


はじめての神殿は砂漠に建てられたテントのようなものでしたが、ユダヤの人々がBC1300年頃(今から3300年ほど前)にイスラエルの土地にやって来た頃からBC900年頃までの400年は、そのようなテント式神殿は色々な場所に移動し、その間、人々はいつでもどこでも彼らの好きな場所に生贄は捧げていました。BC900年になってダヴィド王は彼の王政を広めるために当時王国の首都であったヘブロンエルサレムに移し、そこに普遍的な神殿を建てることにしましたが、相次ぐ戦いによってダヴィデ王の時代には神殿の建設は行われず、息子のソロモンが後を継いで王になった時代になってはじめて建築物としての神殿は建てられ、その神殿が史的には第一神殿と呼ばれる神殿となりました。そしてそれまではどこにでも捧げることの出来た生贄は、エルサレムの神殿でのみ、捧げることとされました。


神殿の役目は、神殿がユダヤの生活の中心となり、ユダヤの人々は一年のうちでは過ぎ越しの祭り(ペサハ)と、七週祭(シャヴオット)と仮住いの祭り(スコット)の三度の参拝を行うこと、そしてその年に最初に収穫された作物を捧げることなどでした。その他には、人が罪を犯した場合などにも動物の生贄を捧げましたし、サンヘドリンと呼ばれる最高裁判所と国会が置かれていました。


日常の礼拝は、神殿で行われるのではなく、それぞれ地域のシナゴーグで行われていました。そして以前サラさんと話していた不浄についてですが、不浄の人が清めなければならなかったのは神殿に参拝に行くためのみであって、日々の生活では清める必要はありませんでした。第二神殿の破壊後、生贄を捧げることはもう出来ませんので、今日においては毎日の礼拝で神殿時代に生贄がどういったものであったかが祈られています。


ちなみに、第一と第二神殿ともにユダヤ暦のアヴの月の9日に破壊されたので、現在でもその日が近づくとユダヤの人々は娯楽を控え、当日には絶食し、エルサレムでは嘆きの壁の前で徹夜で悲しみを表現します。

 スンニー派とシーア派について


 アリーを預言者の後継者として信ずる人々は、アリーこそが預言者によって後継者として任命されたと信じ、ハリーファを認めず、アリーを初代のイマーム(指導者)として、ファーティマと彼の子孫を代々イマームとする血統主義を取ります。


 このように、預言者の血統に神聖性を認めるか否かがスンニー派シーア派の大きな違いです。預言者も人間であるとするスンニー派は人間に神聖性を与えることを拒みますので、スンニー派シーア派はこの部分で大きく対立します。
 もう一つ大きく対立する部分が、コーランの解釈についてです。スンニー派コーランハディースの厳格な遵守を求めますが、シーア派スンニー派コーランハディースを表面的になぞっているだけで精神性がないとします。そして、「コーランの内面的な解釈」を行うことを求めます。これは両派の大きな違いです。もちろん、内面的解釈を誰もが行ったら、とんでもないことになりますので、イマーム(ペルシア語ではエマーム)と呼ばれる決して謝ることのない無謬の人物(預言者とアリーの子孫)のみが行えるということになっています。


 時代が下るに従って、シーア派はどんどんと分裂し、様々なセクトが登場します。その中で最も人口が多いのが12イマーム派であるとされていて、イランのシーア派もこれに属します。
 スンニー派の中にもイスラーム法の解釈の違いなどから大きく四つのグループが存在していますが、基本的な部分においては一致しています。


 私がイスラームについて何か説明する時、スンニー派シーア派の解釈の違いについて述べるのはイスラームの解釈に大きな違いがあるからです。シーア派については、12イマーム派によるイスラーム解釈を説明させてもらっています。


 こんな風に、イスラーム解釈だけを取っても一枚岩とは言い難いイスラーム世界が、一部のテロ集団や政治家がお題目としている「イスラーム世界の統一」を果たせるのかどうか、かなり疑問があると思わずにいられないものがあるのです。

 ナオミさんへの返答

collabosr2005-08-10


昨日のナオミさんからの質問ですが、コメント欄には書ききれそうもなかったので、こちらにまとめました。グリーンの文章はナオミさんからの質問です。

ところでいくつか質問があります。


 「最後の審判の日」に、「正しい行いの人は新しい体(スピリチャルなものであって現世でいう体ではない)と共にあの世であるオラム・ハ・バで永遠に生き続けます。」
 とありますが、現世における肉体というのは蘇りの日には関係ないということなのでしょうか?

 イスラームですと、最後の審判の日に霊魂(ナフス)は元の身体で蘇るとされています。もちろん、埋葬された後、肉体は土に還り骨しか残らない、あるいは骨すらばらばらになってしまうわけですが、それでも最後の審判の日には神の力によって、元の肉体が再生されるとされています。これは恐らく、ユダヤで言う「新しい身体」とは違うものなのではないかと思いますが、どうなのでしょう。


これに関しては2つのアプローチがあります。

1; 現世の行いに基づいて審判が下されるので、その行いをしていた現世の肉体を再び得る。

2; 613のミツヴァ(しなければならないこと)とトーラーに忠実に生きることで現世の肉体ではなくスピリチャルな肉体を得る。これはユダヤでも輪廻を信じる派があり、輪廻をくり返すことによって最終的には一体どれが現世での本当の肉体かを決めかねるので、まったく別の形の肉体を得るだろうと考えられています。 


 それからもう一つ。

 死後、生前の行いに応じて、エデンの園にまっすぐ、あるいは洗浄期間をおいて魂が送られる、ということは、最後の審判の日まで、ほとんど全ての魂がエデンの園にいるわけですよね。
 でも、オリーブ山に葬られた人はメシアの到来の時に真っ先に蘇りを果たすことができると考えられているということは、新たな身体をもっての復活は墓地で行われるのでしょうか?
 肉体が葬られた場所というのも最後の審判の日に何らかの影響〜いち早く復活を遂げることができるということだけなのか、他にもあるのか〜があるということなのでしょうか?これは教理の中でそう述べられているのでしょうか?それとも人々がそう考えている、というくらいのことなのでしょうか?


これはこの前のレポートにはごちゃごちゃしそうなので飛ばしましたが、亡くなった人の魂でもすべてがエデンの園にいけるというわけでもなくて、どうしてもゲヒノアムから抜け出せない魂もあるようです。例えばユダヤでありながら極端な反ユダヤ思想の持ち主であったり、神を冒涜し続けた人の魂はやはり12ヶ月ではどうも洗浄しきれないようで、敗者復活戦には参加できないようです。


ちなみに死者のよみがえりですが、これはユダヤの人だけが復活するのか、または非ユダヤの人にも当てはまるのか。このことも派によってバラバラの解釈です。


オリーブ山ですが、これメシアが黄金門から入るとされているので、その時には黄金門の向かいにあるオリーブ山を通過するだろうから、ここがよみがえりの場所だろうと一般には信じられています。なのでここが優先的だろうと。


そしてオリーブ山ではなく他の場所に埋葬されている人の新しい肉体は土の中を旅してオリーブ山まで来なければならず、他の国の墓地などにオリーブ山の墓地以外に埋葬される時は、亡くなった人の目の上に「迷わずにオリーブ山にたどり着けるように」とオリーブ山の土を乗せて埋葬する習慣があります。でも墓地に埋葬された肉体はよみがえりの肉体ではないので、なぜ土の中を旅してくるのかはよくわからないところですが、ユダヤでは死後の世界のこれといった確信的な考えがまとまっていないように思います。正統派の中でもかなりばらつきがありますね。

 

更にもう一つ。

 メシアが墓を不浄なものと考え…ということですが、ユダヤ教においては、死、死体、墓は不浄なものと考えられていますか?イスラームではムスリムの死や死体は不浄とはされていません。非ムスリムについては、不浄と考える派と、啓典の民ユダヤ教徒キリスト教徒。ゾロアスター教徒仏教徒も第二級啓典の民)は不浄ではないがそれ以外は不浄と考える派とあるようです。図々しくいくつも質問をしてしまいました。ごめんなさい。

ナオミさん、謝るのはなしですよー。質問がたくさんあるほうがおもしろいでしょ?


ユダヤではユダヤの死体は不浄とされ、非ユダヤの死体は不浄とはされません。墓も同じく。なのでムスリムがメシアが不浄な墓地があるために黄金門にこれないだろうという考えはおかしい。メシアにとっては非ユダヤの墓地は何の意味もありませんもん。


ユダヤの人が亡くなった場合、その死体のある部屋のすべてのもの(机、皿、食器、そこに居合わせた人など)が不浄になります。死体に触れた人も不浄になりますし、墓に行けばその人は不浄になります。


これは、神殿があった時代に、不浄になった人は神殿には上がってはいけなかったので、何が不浄で不浄ではないかがはっきりと決められ、不浄となった場合には「赤い牛」と呼ばれる牛を焼いた灰で清めました。また神殿に上がらなければならない職にあったコーヘン(現在は、非ユダヤの社会ではこれは単なる苗字だと思われていますが、実は聖職者を意味しています)の男性は、死体に触れること、葬式や墓地に行くことは禁止されていました。


しかし、現在では神殿がないので清める必要もなく、事実上すべてのユダヤの人が不浄の常態にあるわけです。それで現在はユダヤの神殿のあった場所(今は岩のドームの建っていますが)には、ユダヤの人は上がれないんですよ。でも先日オリーブ山の墓地に行ったときに「コーヘンの迂回道」のサイン(上の写真)が立っていました。エルサレムでは時々、コーヘンが立ち入ってはいけない不浄の場所を迂回させるサインを道端で見ます。神殿がなくなってコーヘンを含むすべてのユダヤの人が不浄であっても、まだコーヘンが不浄になることは避けたいようです。  

 最後の日の復活はどのように行われるのか? 

家族用墓


チカさん、インディアナ・チカ・ジョーンズ体験お疲れ様でした。
 ひげもじゃんのお墓もいろいろあっておもしろいですね。


 オリーブ山に行ったのは、1991年の11月初頭でしたが、日射しが強くて暑くて、上まで登るのが大変でした。


 ところでいくつか質問があります。


 「最後の審判の日」に、「正しい行いの人は新しい体(スピリチャルなものであって現世でいう体ではない)と共にあの世であるオラム・ハ・バで永遠に生き続けます。」
 とありますが、現世における肉体というのは蘇りの日には関係ないということなのでしょうか?


 イスラームですと、最後の審判の日に霊魂(ナフス)は元の身体で蘇るとされています。もちろん、埋葬された後、肉体は土に還り骨しか残らない、あるいは骨すらばらばらになってしまうわけですが、それでも最後の審判の日には神の力によって、元の肉体が再生されるとされています。これは恐らく、ユダヤで言う「新しい身体」とは違うものなのではないかと思いますが、どうなのでしょう。


 それからもう一つ。


 死後、生前の行いに応じて、エデンの園にまっすぐ、あるいは洗浄期間をおいて魂が送られる、ということは、最後の審判の日まで、ほとんど全ての魂がエデンの園にいるわけですよね。

 でも、オリーブ山に葬られた人はメシアの到来の時に真っ先に蘇りを果たすことができると考えられているということは、新たな身体をもっての復活は墓地で行われるのでしょうか?

 肉体が葬られた場所というのも最後の審判の日に何らかの影響〜いち早く復活を遂げることができるということだけなのか、他にもあるのか〜があるということなのでしょうか?これは教理の中でそう述べられているのでしょうか?それとも人々がそう考えている、というくらいのことなのでしょうか?


 更にもう一つ。


 メシアが墓を不浄なものと考え…ということですが、ユダヤ教においては、死、死体、墓は不浄なものと考えられていますか?イスラームではムスリムの死や死体は不浄とはされていません。非ムスリムについては、不浄と考える派と、啓典の民ユダヤ教徒キリスト教徒。ゾロアスター教徒仏教徒も第二級啓典の民)は不浄ではないがそれ以外は不浄と考える派とあるようです。


 図々しくいくつも質問をしてしまいました。ごめんなさい。


 上の質問との関連は薄いのですが、思い出したことがあるのでご紹介しておきます。


 ユダヤ教徒の墓地ではどうか分かりませんが〜多分同じだと思うのですが〜、ムスリムの墓は、誰かが亡くなった時に、墓地の空いているところに順番に埋葬をするため、家族であってもばらばらの場所に埋葬されることもしばしばです。それを防ぐため、あらかじめ墓地の一角を家族の墓のために買っておく人もいますが、お金がかかるためにそうしない人も多いです。おかげで、テヘランの公共墓地では、お父さんのお墓とお母さんのお墓が自動車で移動しなくてはならないほど離れてしまうこともあったりします。


 他宗教でもそう言うことが多いですが、イスラームでも子供は清らかに産まれた存在であると考えられています。従って、子どもが亡くなった場合、現世の穢れに染まる前になくなったと考えられ、必ずや天国へ行くと見なされています。
 そのように必ず天国へ行くことができる清らかな子どもが、墓地の空きの都合で地獄へ行くかもしれない大人の間に葬られ、最後の審判の日に大人の間で復活するのはかわいそうだと考える人もいます。
 そのため、自分の子どもが亡くなった時に、同じように天国へ行く子どもたちと同じ場所に葬ってあげたいと考える両親も多くいます。
 こうした人たちの要望に応えて、テヘラン市の共同墓地(ベヘシュテ・ザフラー)には、子どもだけが葬られている一角があります。
 イランでは、木曜日の午後になると、早世した我が子に会いに子ども墓地区へやって来る人々を見ることができます。


 これはテヘランの共同墓地内に設けられた子供用墓地。 (現在、写真を調整中。こちらでご覧ください。)


 死後も家族で一緒にいたいという人には、家族用墓が用意されています。下の写真のような建物の一部屋を買うのですが、これがとんでもなく高額だそうで、相当なお金持ちでないと購入できないそうです。



 これが家族用墓の外観。アーチ一つが一部屋の大きさ。(現在、写真を調整中。こちらでご覧ください。)


 こちらは部屋の中の例。(現在、写真を調整中。こちらでご覧ください。)


 それともう一つ。


 イスラームの多数派であるスンニー派では、預言者以外どんな人物も最後の審判の日に神に人の罪のとりなしをすることはできないとされています。
 ところがシーア派では、預言者の従兄弟であり娘婿である初代イマーム・アリーの息子である第二代目イマーム・ハサンと第三代目イマームフサインの血統(つまり預言者の血を引く人々)の人々であるイマームとその家族は特別な力(バラカ)を持つと考えられ、神に対するとりなしの力を持っているとされています。
 このため、死後はイマームの近くに葬られ、イマームの持つバラカによって来世での幸運を得ようとする人が多くいます。


 サウジアラビアにも預言者や何人かのイマームの墓がありますが、シーア派に対して否定的なサウジアラビアへ遺体を運び、葬ってもらうのは難しく、ほとんど行われていません。
 第三代目イマームの殉教地であるイラクのカルバラー、初代イマーム墓所であるとされるナジャフ、イランでは第八代目イマーム・レザーの廟があるマシュハドや、ゴムにあるレザーの妹の廟であるマアスーメ廟が人気です。
 イランのレザー廟や、マアスーメ廟に一時間もいると、いくつもの棺桶が運び込まれ、廟を一周し、墓地へ運ばれていくのを見ることができます。また、イラン・イラク戦争中でもカルバラーへ家族の遺体を葬るため、こっそりとイラクへ遺体を運ぶ人も多かったと聞いています。


これはゴムのマアスーメ廟近くにある墓地の一つ。敷地は全部、墓墓墓。奥に見えるのは、イマームの血を引く聖者の一人の廟。(現在、写真を調整中。こちらでご覧ください。)


ちなみに、こちらはパキスタンとの国境に近い町、ザーヘダーンの町はずれに設けられたスンニー派の共同墓地。イマームや聖者の廟に寄りかかることなく、誰の墓か墓碑さえもない墓も多い。(現在、写真を調整中。こちらでご覧ください。)


 チカさんに指摘されたスンニー派シーア派がどういうものなのかについては、まとめるのにちょっと苦労していますが、この次にはきちんと説明できるようにします。



肉体の復活についての物語

肉体の再生についての物語が伝えられています。

 ある日、ムーサー(聖書の中のモーセ)が海辺を歩いていると、下半身が海に浸かり、上半身は砂浜に打ち上げられている遺体がありました。それは下半身は魚につつかれ、上半身は鳥についばまれ、ぼろぼろになっていました。
 ムーサーは不安になりました。
「このように海と陸で身体が散り散りになってしまったら、最後の日にどうやって復活できるのだろうか?」
 神はムーサーの不安に答えを与えました。
 神はムーサーに鳥を一羽屠り、その肉を四等分して、山や野原などにまくように命じました。ムーサーは命じられた通りにしました。
 鳥はムーサーの目の前で生き返り、また一羽の鳥となって飛んで行きました。
 神は、「身体がどんなにばらばらになろうと、神の力を持ってすれはそれを蘇らせることは簡単である」ということを証明したのです。